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偉大なルーマニア人彫刻家、コンスタンティン・ブランクーシ

~ 20世紀を代表する偉大な彫刻家 ~

2016年2月19日は、20世紀を代表する偉大なルーマニア人彫刻家、コンスタンティン・ブランクーシの生誕140周年でした。2015年冬、毎年2月19日を『コンスタンティン・ブランクーシの日』に制定し、2016年から実施することになりました。残念ながら、この日は国民の祝日ではなく平日扱いなので、ルーマニア人の中でもまだ認知度は薄いようです。

ブランクーシが生まれたホビツァ村の近くにあるトゥルグ・ジウ市では、2016年2月19日、140周年記念セレモニーが初めて開催され、ブランクーシの作品『無限柱』がある丘や『接吻の門』『沈黙のテーブル』があるトゥルグ・ジウ公園をパレードしたり、彼の作品をカカオで描いたコリバ(宗教的な儀式で振る舞われるお菓子)が用意されました。

コンスタンティン・ブランクーシとは一体どのような人だったのでしょうか。

1876年2月19日、ブランクーシはホビツァ村の貧しい家庭に6人兄弟の一番末っ子としてこの世に生を受けました。幼少時代、彼は羊飼いや染め物工場での見習い、飲食店などで仕事をして家計を助けていました。彼は手先の器用さを見出され、クライオバ市にある美術工芸学校へ奨学金を得て入学をしました。

Carol Davila

1896年、20歳となったブランクーシはウィーンへ行き、そこで木彫職人として働きました。2年後、ルーマニアに戻りブカレストの美術大学に入学して立体感表現や解剖学を真剣に学びました。いろいろな勉強をして知識を身につけたブランクーシですが、生涯を通じて「素朴」「シンプル」という概念を持ち続けていました。 彼は学生のころから才能を遺憾なく発揮し、数々の賞を受賞しました。ブカレストの軍人病院にある『カロル・ダビラ医師の胸像』は、公共の場に展示する記念碑として造られた彼にとって最初の作品です(1903年作)。

近代彫刻家の父と称されるオーギュスト・ロダンに魅せられたブランクーシは、1904年、再びルーマニアを離れ、ウィーン、ミュンヘンへと旅し、パリへとたどり着きました。ここパリで、ブランクーシはエコール・デ・ボザール美術学校に入学し、オーギュスト・ロダンやアントナン・メルシエのアトリエなどで働きました。
1906年にパリで行われた展覧会にブランクーシは初めて出展をしましたが、ロダンの影響を強く受けたされた自分の作品をみて、「大樹の下では何も育たない」という言葉を残し、彼はロダンの下を離れることにしました。

1907年、ルーマニアのブザウという町の墓地から死者の慰霊碑を造って欲しいという依頼を受け、ブランクーシは『祈り』と題された若い女性がひざまづいて祈りを捧げている一体の像を作りました。これは彼の作品の真骨頂である素朴さ・シンプルさを追求した最初の作品と言われています。

そしてこの年、ブランクーシはパリにアトリエを構えました。アバンギャルドの芸術家たちと交流し、このアトリエで『眠れるミューズ』『接吻』『マイアストラ(ルーマニアの民話に登場する鳥)』『空間の鳥』『ポガニー令嬢』などたくさんの作品を生み出しました。1970年開催の大阪万博の噴水や広島平和大橋などのデザインで有名な日系アメリカ人彫刻家イサム・ノグチがブランクーシに師事し助手をしながら彫刻を学んだのはこの頃のことです。

ブランクーシの名声はインドにも届き、1933年インドの大王(マハーラージャ)から、インドールの町にブランクーシ自身の作品を展示するための宮殿を建築するよう依頼されました。ブランクーシ自身も招聘を受けて1937年インドへ渡りましたが、大王の死により宮殿は完成することはありませんでした。

1937年、ブランクーシはルーマニアに戻り、トゥルグ・ジウ市から作品を三つ依頼され作成しました。それが『無限柱』『接吻の門』『沈黙のテーブル』です。

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『無限柱』-ルーマニア南部独特の葬儀を表しています。もともとは「無限に続く感謝の鎖」と題され、1916年第一次世界大戦のとき、ジウ川のほとりで戦死した兵士へ捧げられたものです。

『接吻の門』-半円が合わさっているのは、ブランクーシ作品の接吻の特徴です。凱旋門のような門は、死を超越した生命の勝利を象徴しています。

『沈黙のテーブル』-戦いの前に兵士が食事をとる机を表しています。砂時計を模った椅子は12個あり、時を刻んでいます。

1939年、生涯で最後の海外渡航となるアメリカへ行き、ニューヨークの近代美術館で行われた展示会に出展しました。

生涯を通じて素朴・シンプルを追求したブランクーシ。『飛ぶ亀』(1943年作)は最後の作品の中で重要なものともいわれています。

1952年、ブランクーシはフランス国籍を取得しました。晩年、彼はパリにあるアトリエで、フランス人の心とルーマニアの雰囲気の中に自分を見出すことに専念しました。

ブランクーシ作品は、フランスやスイス、オランダ、イギリス、アメリカなど世界の至る国で開催された展覧会に出展され、中でも1955年ニューヨークのビルバオ・グッゲンハイム美術館で行われたものが最大でした。社会主義のルーマニアでは、ブランクーシはブルジョア階級のコスモポリタニズム代表とみなされ批判を受けていましたが、1956年12月には国立ルーマニア美術館で個展を開催しました。

「祖国に戻ることができないなんて、悲しいな」そんな望郷の念に駆られながら、1957年3月16日、彼は81才の生涯をフランスのパリで閉じ、パリに埋葬されました。ブランクーシは自分のアトリエと作品をルーマニアに遺贈することを望んでいました。にもかかわらず、社会主義時代だった当時のルーマニア政府は彼の遺言を拒否したため、彼のアトリエと80以上の作品はフランスに戻されてしまいました。フランスは喜んで受け入れ、現在、パリのポンピドゥ・センターにブランクーシのアトリエと作品を見ることができます。

1964年、ルーマニアでは彫刻家コンスタンティン・ブランクーシの偉大さを再認識し、四半世紀ほど放置され風化していたトゥルグ・ジウ市にある三つの作品を保護し、整備するようになりました。

イサム・ノク゛チが師事したブランクーシの作品は日本でも横浜美術館や箱根の森美術館、兵庫県立近代美術館などで観ることができますが、コンスタンティン・ブランクーシの世界観を感じに、トゥルグ・ジウを散策してみませんか。

[石黒えいこ 著]

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